あたたかいいずみ

地味な日々のエッセイのようなもの

別人

お客さんのI君は20代の男性で特別支援学校を卒業している。

ギョロリとした目つきで一見ちょっと怖いけど、話してみると純朴で悪い人ではないなという感じ。

彼は、説明してもすぐに忘れて同じことを何回も聞いてくる。

なのでその度に根気強く教えていた。

先日電話で対応していたら、やはり同じことを何度も聞いてくる。

理解しやすいように一から丁寧におしえていたら、I君は、

「あー母親が帰ってくるので早くしてくれませんか」

だって。

よかれと思ったわたしの気持ちは。

その話をしたら同僚のオオサワが爆笑。

ひどくない。どっちも。

 

 

そのうちI君はわたしを指名してくるようになったが、その時いるスタッフで対応していた。

今日は同僚のアサイが対応。

I君は遠くからわたしにも会釈をするものの、キョトンとした表情で、ああもうわたしのことを忘れてしまったのかもしれないと思った。

 

 

対応を終えて帰ってきたアサイ

わたしのことなんか忘れてしまってたでしょ、と聞いたら

「逆ですよ」

「にきさんタイプに近いんですよね、だって。結婚してるのかな、自分は結婚してないですけど、だって!」

えええ!

まじ!

優しく対応しただけあったじゃん!

と思ったが、

でも実際そうなるとちょっと怖い気持ちもあるし、対応に困る。

 

 

どうしたもんかと思っていたら、同僚スズキが「ちょっと危なかったらあれだから、もう対応しなくてもいいよ」と言ってくれた。

 

 

数十分後、I君が窓口に戻ってきた。

なんとみんなちょうど出払っていて、対応できる人がわたし以外誰もいない。

しょうがない。

出るしか。

 

どうしましたか〜、と出て、

申請書を書く必要があったので書いてもらった。

内心ちょっとだけドギマギしていたわたし。

 

そしてI君が申請書を書きながら放った言葉が衝撃だった。

 

 

 

「誰ですか」

 

 

 

え?

 

 

誰とは?

 

 

 

 

「オオサワさんですか」

 

 

は?

 

 

○○ですけど…

と答えるわたし。

  

 

 

I君「・・・顔、変わりましたか」

 

えっ。

 

 

そしてI君はポツリと

「そんな顔だったっけな…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

途方に暮れたね。

 

 

 

 

 

 

 

いや、待って。

なんなん。この一連の流れ全部。

持ち上げるだけ持ち上げといて?

こんな叩きのめされることってある?

今日のアサイの話なんか聞かない方が幸せだったよね…

仕組まれてるのかと思うほど鮮やか。

 

 

前に会った時から1か月も経ってないけど。

きっとわたしは何かが変わってしまったのだろうね。

オオサワが爆笑する顔が目に浮かぶ。

 

 

その後、I君が用事を済ませて帰るときにばったり遭遇した。

I君「あっ、○○さん!お世話になりました」

 

冴えない顔と名前が一致したようだった。

彼の頭の中で上書きされたのだろう、輝いていたわたしはもうどこにもいない。

 

それにしても「顔、変わりましたか」に対するベストアンサーは何だったのだろうかと考えている。

 

 

わたしがいてもいいところ

わたしはごはんを作ることがそんなに好きではなく

自分だけだと、夜でも、豚汁・納豆・めかぶ、以上、てな感じだ。

 
人がいると、あらかじめ献立を考えるのだけれど
自分だけだと計画を立てないことの方が多くて
今日は腹ぺこで仕事から帰ってきたのだけど何も作りたいと思わず
それでもがんばって作ったとしてもいつもの適当な薄い味の何かでは嫌だった。
 
台風が来るらしく雨が降っている。
今日は選挙なので投票に行かないといけないことを思い出し
腹ぺこなまま外に出た。
 
投票を終え、コンビニにでも寄って帰るかと思ったのだけれど、ちょっと距離がある。
ぬれてしまうけどしょうがないか、と思っていたら、
コンビニまでの道中のだいぶ手前の方にラーメン屋さんがあることを思い出した。
 
昔ながらのラーメン屋さんという感じで
わたしはそんなに興味がわかず、引っ越してきてから結構経つのに特に行こうとも思わなかったけど
Tちゃんがうちに来るたびにいつか行きたいなあと言っているので
予習もかねて行ってみようと思って入ってみた。
 
座敷のテーブルが3組。あとはカウンターの小さなお店。
ご夫婦おふたりで営業されているようだ。
 
味噌ラーメンを頼んだ。
お待ちどうさま、と出てきたのは、ふたり分ありそうな大きな器。
器が大きいからなのか、
もやしが麺と同じくらいの量入っているからなのか
なんでかはわからないけど、
ひたすら最後まで熱かった。
 
食べている間、旦那さんはお座敷の席の方で
客席のテレビを見ながらスマホで台風の速報を見ていた。
 
わたしは食べながら、普段見ないテレビを見ていた。
普段見ないものだから、テレビは刺激が強く、
うわあ、とか、うそう、とか、えええ、って声が出てしまう。
 
そのうち旦那さんと奥さんの場所が交代し、奥さんが座ってテレビを見はじめた。
わたしもゆっくり食べて、食べ終わってもキリがいいとこまで見たくなり
奥さんとふたりでテレビを見ていた。
 
その番組でやっていたのは、高齢の夫婦が山奥の茶畑で農作業をしながら
ふたりで暮らしている様子だった。
一緒に農作業をし、時に山を降りて日用品の買い出しをし、毎日お互いの趣味を
それぞれ家でやりながら、縁側でお茶を飲む様子が映し出されて、
ああ理想的だなあと思った。
 
わたしがうわあとかえええとか言っているので、
それぞれに見ているというよりは、一緒に見てる感じがしたのだと思う。
奥さんが少しわたしに話しかけてきた。
この辺に住んでいるの?とかそういう他愛もない話。
 
初めてのお店だけどテレビを見ながら話していると
どこかの家の居間のようで
テレビの夫婦も素敵だけれど、今このわたしの時間ものんびりしていて悪くないと思った。
 
いい時間だなあ、と改めて思うということは
それが当たり前ではないということだ。
わたしには、居間が足りてないのだと思った。
そこにいる人たちが、いる人同士話してもいいし、
それぞれがそれぞれのことしていてもいい、
競争のない、心に引っかかりのない、
人の気配を感じながらのんびりできる場所。
 
お店から出るとき、旦那さんと
雨がこれから強くなって来そうですねえ、と話して
まだ本降りでない雨の中を歩いて帰った。
たいしてぬれずに帰れるほど近かった。
こんなに近くても行かないところには行かないんだなと思った。
でもこれからはたまに行くかもしれない。
熱かったラーメンのなごりで舌がまだひりひりとしている。

 

生命体としてただ生きる

 

「わたしたちに許された特別な時間の終わり」という映画を見た。

2日経っても胸のところがなんとなく重たい。

 
主人公は増田くんというミュージシャン。
その友達の映画監督の太田くんがカメラを回している。
 
この映画はほとんどドキュメンタリーで、
ネット上で誰かが言ってたけど、日常でここまで回すかってくらいカメラ回してる。
映画監督の太田くんは、増田くんが生きてるときからたくさんたくさんカメラを回していて
まるで彼が死んでしまうのがわかっていたみたいだ。
 
倉下忠憲著「『目標』の研究」を最近読んだ。
この本は最後にこう語っている。
 
「決して人生を目標の手段とするような逆転を起こさないように注意されたい。
生きることはただ生きることであっていいはずだ。」
「どのような目標を達成しても、いずれはすべてが消えゆくのだ。」
「人はただ生きるのだ。もちろん、その下に何かしらの目標を置くことは自由だろう。
むしろそれが「人間らしさ」なのかもしれない。ただ、その上下関係を逆転させてしまうと
ややこしいことになる。その点だけは注意が必要だ」
「目標という道標があれば人生という旅路は楽しいもの、あるいは手応えのあるものになるだろう」
「夢や目標とはそのような付き合い方をしていきたいものである」
 
 
増田くんは、「『目標』の研究」で言うところのタブー、
人生を目標の手段とするような逆転を起こしていたのだと思う。
彼はきっと、音楽を
「人生の旅路を楽しく手応えあるものにする」ためのものであるとは考えなかった。
逆転を起こすことには注意が必要であっても、
彼の性質としてもうどうしようもないところで、
逆転を起こすことしかできなかったのではないか。
彼にとって音楽を真ん中に置けない人生は無意味だったのではないかと思う。
 
この映画に出てくるもうひとりの人物、蔵人くんは、自分なりに音楽をやりながらも
会社員として働き、結婚し、最後に子どもをもうける。
あまりに増田くんと対照的な存在。
この3人は実際に友達で、カメラが回る空間はほとんどが現実でありながらも
3人のスタンスはフィクションのようだった。
 
増田くんが死んでしまうことでこの映画が完成している。
増田くんが死んでしまうことで、ずっとカメラを回していた意味が出てくる。
彼はエモーションが大事と言っていたけれど、
彼のエモーションがよりくっきりとわたしの心に残る。
彼の生前の姿勢が視線が重さを持って迫ってくる。
それはミュージシャンとして生きた彼の存在が叫んでいることだ。
 
でも。でも、それでもそれでもね、
死んでしまうことで存在が際立ったんだとしても。
それでも生きることが大事だと思ってしまうんだよ。
部外者のわたしがどれだけ言ったって無責任なんだけれど。
存在が叫ばなくても、そこに地味に生きているだけでいいのに。
周りの人間は無力だ。どう言い聞かせたって本人の思いはきっと止められない。
本人が納得した答えなのかどうなのかはわからないけれど
本人だってもうそうするしかなかったのだろう。
 
自分もどっちかといえば、ただ生きていくことに意味なんかないと思っていた。
それでも年齢を重ねたからなのか、
まず「生きる」が上位に来る、といつのまにか思っていたのだなということを再認識した。
生命体としてただ生きること。
 
最後に蔵人くんの赤ちゃんが生まれた。
赤ちゃんはただ生きている。
それだけでいいのだと思った。
 
ただ生きることはとってもとっても大事。
だけど彼はその大事なことをやめることで彼の存在を伝えたように思う。
月並みな感想しか言えないけれど
それでも何か言いたいと思った映画だった。
この映画を見てからずっと
頭の中で増田くんが作ったエンディング曲が流れている。

 

縁取りの中で踊る

仕事をしながら、なにか作ったり、絵を描いたりしたいと思っている。
でも、一人暮らしなので、家に帰ってきて家事をしてたら、
なんでこんなに・・・というほど時間がかかってしまう。
 
夜はネットサーフィンをしたりと無駄な時間が多く
意識が散ってなんでも当初の目的を忘れがちなので、
タイマーを導入してみた。
首から下げて、時間をセットしてからなにかをはじめると、
意外と集中してやるということがわかった。
散った意識を集めれば、目の前のことをやるのはそんなに苦ではないみたい。
 
これはいいかもと思ったので、さらに時間管理のアプリを導入。
これは、タスクをこなした時間がわかる優れもので、
初日にタスクをこなしたログを残しておくと、
次回から自動的に見積もり時間を計測してくれるので、
寝るまでにあとどれだけの時間が残っているかわかる。
だから予測を立てて行動できるようになる。
 
 
ずっと、こたつで寝ちゃったりしてたし
お昼はお弁当も作らず買って食べたり
朝はずっとシャワーだし、っていう自堕落な生活を送っていたんだけど
さすがにこれはいかんなあ、とは長らく思っていた。
でもひとりだから
水が低いところに流れていくように、
とめどなく流れ落ちていた。
 
で、最近はそのアプリを導入して、
地道にぽちぽち計測して、ログができたらその通り行動していた。
朝と夜は、家事やらなんやらルーチンだけど
うっかりぼうっとしてたら忘れがちなこともあるので
それも残さず書いて、同じように毎日行動。
 
数ヶ月前から、プチ筋トレとか体操みたいのとかもやり始めたけど
それもルーチンに組み込めば当たり前のようにやる。
今まで続かなかったものが続く驚き。
 
 
だから昨日は、
洗濯回して干して夜ごはん作ってお弁当も準備して
トレーニング類ひととおりやって
お風呂わかして入って
・・・とかとか
細かいのも含めてわりと完璧な夜のルーチンを回した。
 
これですべてうまくいく、
生活の基礎的なことちゃんとやれて身体の調子が整って
肌つやもよくて、お金も使わず、自分の楽しいことのために時間を確保できた!!
 
と、
なるはずだったのに。
 
そのルーチンやるだけで、夜の時間全部使ってしまった。
なんでなん。
 
途中、メールを返したり、
お風呂でちょっと寝てしまったりとか
そういうプチ無駄は確かにあったけれども。
普通にこなすだけで、何故こんなに時間を使うのか。
しかも23時に寝たかったのに、0時回るし。
 
自分の時間を確保するために、ぽちぽち時間計測してやってんのに。
そういうことを意識しない方が、だんぜん、自分の好きなことできてる。
だってそのアプリ導入前、たくさん時間使って作品の制作したのに、
ちゃんと仕事は行けてるもんね。
やらない方がいいのかな。
 
しかもそんだけやって、今日すごく身体がだるい。
なんなんだ。
 
と思ったので、今日は時間ガン無視してこのブログ書いている。
まだ夜も深くない。
左脳的じゃなく右脳的に感覚的にやった方が自分はいいのかもしれない。
そこがまだ答え出ていない。
自分がある程度うまくやれる方法をつかむことが大事で
それがつかめた時は感覚的にわかると思っていて、
お昼間やってる仕事ではなんとなくわかっているんだけど
自分の生活のことについてはいまいちつかめないまま。
仕事は、職場にいる間集中して仕事だけやっていればいいんだけど
自分の生活、やりたいことについては、
多分四角い縁取りを取る、というだけではだめで、
気分とか体調とか友達付き合いとか突発的なことも絡んでくるので
仕事とちがってもっと有機的なものなんだろなあ。とは思う。
 
でもちゃんとした生活やっていると、
お肌の調子だけはいい気がするんだよ、、、、
お肌の調子で気分が違うから、お肌大事よね・・・
 
生活を整える、イコール、お肌を整える、
ということなのかもしれないことが自分の感覚でわかっただけ、ちょっとした進歩かな。
ということは、この時間管理生活は、お肌最優先生活だったんだな。
年末、10年ぶりくらいに友達と会うから、
しばらくはお肌最優先でもいいかな・・・・・・
 
 

ファミリー・レストラン

結局その後何も書かないまま2ヶ月が過ぎた。

突然なにか書きたくなったので何も考えずに書こうと思った。

わたしがもうひとりいたら、わたしの日記見たら

なかなかいいと思うのかなーと思って。

 

昨日デニーズに行った。

自分は特にこれといった趣味はないんだけど

ひとりのおやすみの日の、ちょっとした楽しみというのが

デニーズに行くことになっている。

わたしの住んでいる近辺にあるファミレスといえば

デニーズ・ガスト・ココス で

ガストとココスはドリンクバーがあって長居するにはいいのだけど、

ドリンクバーがあるせいか、なんとなくうるさい感じがする。雰囲気が。

 

で、デニーズはドリンクバーがないけどwifiが2時間使えるし

価格帯が高め設定なので、シニア層が多い気がする。

だからちょっと落ち着いた雰囲気。

よく考えたら、ドリンクバーがなくても別にいい。

珈琲はおかわりできるし。

 

カフェが好きで以前はいろいろ巡っていたのだけど、

カフェは店員さんとの距離が近いし(そこが好きだったんだけど)

今は長時間放置されたほうが楽なので

デニーズ一択である。

 

ひとりで行くと、昔のフットボールアワーのネタを思い出す。

「おひとりさまですか」

「はい」

ファミリー・レストランなのに、おひとりさまですか」

「別にええやんけ」

 

というくだり。

 

わたしはおひとりさまでとっても長居する、

回転率に貢献しないお客だ。

この自分のデニーズ活動を

「アウトドアひきこもり」と名づけている。

 

昔からちょいちょいやってるんだけど

昔、穂村弘好きの友達にこのことを言ったら、

「ほむらさんもファミレスに8時間いるって言ってたー♡」

とのこと。

それから、わたしの好きなタナカカツキ氏も

デニーズでよく友達とおしゃべりしてた。

 

わたしの好きな人たちもファミレスが好きなのだ。

 

わたしはいまはもっぱらひとりデニーズだけど

ゆくゆくタナカカツキさんみたいに、友達何人かで集まって

デニーズでおしゃべりもしてみたい。

その時は完全に気が合う友達と

ずうっとつきない話がしたい。

それがささやかな夢。

あ、でもいつもデニーズ行くと、

結構おばちゃんが集まっておしゃべりしてる。

ガストはママ友が集ってる。

結構一般的なんだな、

ていうか普通はそっちか。

 

とはいえ、ひとりでもとっても楽しい。

デニーズはレストランだからごはんを食べるところなのに

ひとりで本を読んだり絵を描いたり自分会議したり手紙書いたりしてる。

 

毎日小さな職場で事務の仕事をして

やすみの日も小さく過ごしているこの感じ

とっても地味だけど

これはこれで悪くないかもしれないと

昨日ふと思った。

 

またはじめてみる

むかしブログを書いていた時は、

毎日めまぐるしくおもしろいことがあった。

 

今はわりと穏やかな日々を送っていて

ぽかーんと空間が空いているような感覚がある。

胃のあたりに。

 

それはいいことでもあるのだけれど

時々ぽっかりを持て余してしまう。

 

むかしブログを書いていた時は、

毎日めまぐるしくおもしろいことがあったから書いていたんだと思うけど

もしかしたら

ブログを書いていたからおもしろいことが起こったのかな。

なんてちょっと思ったりして。

 

ブログを書くのをなんとなくやめてから、

気が向いた時に書こうと思って何度かやってみては

やっぱりおもしろいこと起きないから続かなくて。

アカウント作っては放置してそのうちやめたりを繰り返した。

 

だから何度目かの再開だし

またやめるかもしれない。

でももしかしたらまた楽しくなるかも。

地味で小さな、楽しくなるかもしれない種を

思い立ったが吉日で、

今夜一粒まいてみる。

育つかな。